粋狂老人のアートコラム
         受賞歴無しでも二科会員となる画家に注目・・・・・・国枝金三
         一目で作品の虜になるも、初見のサインに翻弄されて・・・

  二科70年史の戦前編を紐解くと、奇妙な事実に直面する。他の人たちは気にも留めない些細な事柄かも知れないが、調べてみると興味深い事実があることがわかった。私が着目したのは、巻末の二科会員略歴<戦前編>の掲載内容である。頁を捲ると絵画67名、彫刻9名の名前が掲載され、それぞれに「生没年、出生地、出身校・研究所歴、受賞、会員推挙年」が確認できる。会員を個別に見ていくと、まず、最初に会員推挙年に第一回展監査委員とある画家に気が付いた。因みに、該当者は有島生馬、石井柏亭、梅原龍三郎、小杉未醒、斎藤豊作、坂本繁二郎、田辺至、津田青楓、柳敬助、山下新太郎、湯浅一郎の11名である。
これらのメンバーは大方が二科会創立メンバーであることがわかっている。私が気になったのは、受賞歴のない北川民次、国枝金三、国吉康雄、熊谷守一、小山敬三、田口省吾、藤田嗣治、正宗得三郎、森田恒友、安井曽太郎の10名が何故二科の会員となったのかである。私の知る限り、他の団体の場合は受賞して会友に推挙され、さらにその後の出品作の出来具合により会員に推挙されていると思っていた。ところが彼らは受賞歴がなく会員となっていた。確かにこのメンバーの名前を見る限り、錚々たる顔ぶれであり、二科会としても、組織の格を上げるために必要な画家たちであったと思われる。その辺の事情を知りたい思いも残るが、資料不足で調査は暫くお預けになりそうである。

 少し回り道したと思われるかもしれないが、これから取り上げる画家に関係があるため、敢えて最初に説明させてもらうことにした。
 実は久しぶりに私の購入条件に合致する作品を見つけた。具体的には、(一)出合った瞬間に胸を躍らせる魅力に心惹かれたこと。(二)作品からは私の好きな大正から昭和初期当たり特有の匂いを感じたこと。(三)額と絵の一方だけが目立つことなく、両者が良い具合にしっくりし、かつ、額は高価な造りであること。(四)私の好む作者不詳で、価格も廉価であることなどである。
 
 ところで、今回の作品は最初から作者特定の難しさが際立つ手強い相手と思われた。勿論、サインは確認できるが、苗字(姓)なのか名前(名)なのか判然としない。記憶を辿るも、今回ばかりは一向に該当者がヒットせずお手上げ状態であった。私はこのようなときは、無理せずに暫く時間を置くことにしてきた。今回も作者特定とは距離を置き、無関係の庭木の手入れに数日間精を出した。
 数日が過ぎたころ、画家のサインについて、過去の記憶を思い出してみた。例えば、サインも画家それぞれに多様であり、ローマ字、漢字、漢字+ローマ字、イニシャルだけやローマ字でも、姓名の順序が違うなど画家の思いが込められていることがわかっている。それらをあれやこれやと思いだしている時、ふと苗字だけのサインをしていた二人の画家の存在が蘇ってきた。それは福沢一郎と山下新太郎であった。しかも重要なことは、苗字(姓)をローマ字で書く際、途中で終わらせている事実に注目した。私はこの瞬間、“作者は特定できた”と胸の奥から湧き上がる喜びを感じた。この体験は僅かな小遣いで不詳作品を購入し、作者特定に生き甲斐を感じている私だけの特権で、おそらく他人には味わえない唯一の喜びかもしれない。
 一方、私は蒐集活動間もない頃、何かの雑誌で目にした大切な言葉を後生大事にしている。それは「サインも作品の一部である」と書かれていたことである。それ以来、一部の画家の例外を除き、目から鱗が落ちるように下手なサインの作品には目もくれず、購入することは控えてきた。
       
       堀越しに眺めた紫禁城(仮題) 36.3×36.3㎝

 話を本題に戻すと、画面には「Kunie」と流れるような筆記体のローマ字サインが確認できる。私は山下や福沢の事例を参考に一人の画家の名前が心に浮かんだ。それは「国枝金三」である。私は相当前に都内の画廊(物故画家専門)で、国枝の静物画を目にした記憶があるが、確か40万円台の価格が付いていて、購入を諦めた記憶がある。私は自分の手が届かない作品であっても、決してそのまま見過ごすことはせず、必ず画風やサイン、額などを確認する習慣をいつの頃からか身に付けてきた。その時もじっくり観察した記憶が残っている。それらのことは、後日、必ず役に立つことを実感してきたから続けられるのかもしれない。
その時のサインは「 Kunieda.K」とあったと記憶している。

 問題は国枝が「Kunie」のサインを使用していたかどうかに絞られた。そこで手元の資料を片端から確認すると、遂にその答えを見つけた。それは昭和7年開催の第19回二科展出品作の<渚の魚>に同じサインをしていたことが確認できた。
勿論、「N」の癖のある書き方も酷似しており、本人の筆跡に間違いないことがわかった。今回は本人に辿り着くまで、多少の紆余曲折はあったものの、ついに作者に辿り着くことができ喜びも一入である。
 
 遅ればせながら作品について紹介することにしよう。対象は画面から見て北
京紫禁城を描いたものと思われる。何と言っても興味深いのは、左右から交差するS字に描かれた堀と石橋の存在が、建物だけでは平凡になりがちな画面に重要な役割を担っているとみている。さらに中段には横に紫禁城を斜めから描くなど、かなり構図に苦心した跡が感じられる。勿論、陽光が右上方向から射していると思われ、気になる陰影は紫禁城の重厚感を見事に表現し、建物だけでなく、川面や手摺周辺にも見て取れる。更に右側の石橋に平行した濃い茶系の路面の表現に対し、左奥に見える石橋や堀の壁面を明るい白系黄土色にする色彩の対比は、暗くなりがちな画面の調整弁の働きがあるようだ。一方、堀や歩道には石造りの転落防止用の手摺が見られるなど時代を経た周辺の雰囲気が感じられる作品に仕上がっている。何と言っても、この作品の魅力は、澄み切った空の色と建物を含む茶系の重厚感漂う色彩表現が見事に調和していることであろう。そのことが見る者を魅了して止まないと考えている。
 
 この辺で国枝金三の人となりがわかる文章を見つけたので紹介することにした。昭和19年3月(注1)に大阪市立美術館で開催された春季二科展目録に望月信成氏(当時、大阪市立美術館長)が国枝金三遺作特別陳列に寄せた文章である。一部を引用させてもらうと、『大阪は「芸術家の育たない所」という口碑(こうひ)に反し、僅かであるが特筆すべき名匠を出しているうち国枝金三は異色の存在であった。宿命の右腕は芸術的創作に縁遠く左手画伯として関西洋画壇の重鎮となったという変わり種。芸術に遊ぶ人としては出色の常識円満な人で、関西二科会の女房役、彼に委ねておけば経営面も会計面も万事オーケーという程、経理の頭脳の持ち主であって、而も何人も追随を許さぬ美を展開しているという興味のある人物。―途中省略― 彼は元来細かい神経を多分に持ち、自然の美しき所を巧みに捉えて忠実な描写を行った。特に当時の画人の多くが、洋風趣味を謳歌することこそ油絵の本質なりと考えていたのに反し、彼は徹底した東洋趣味に生きた人であって、特に晩年はその高潮に達した感がめだった。以下省略―』とあり、身体の不自由さにもめげずに、確固不抜の精神で絵画制作に取り組んだ国枝の思いが行間から伝わってくるようだ。
 私は国枝の人物評を知り、あらためて絵と対峙すると、画家の息遣いまで感じられるような不思議な気分を味わっている。

 余談であるが、コラムを書くにあたって、予めカンヴァスの採寸をして気付いたことがある。手元の作品は何と珍しい正方形のカンヴァスであった。私の数少ない所蔵品の中でも正方形のカンヴァスは初めてかもしれない。カンヴァスが正方形の場合、作品にどのような影響を与えるのか気になっている。若しかしたら作品の構図によっては、プラス効果が見込まれるのではないだろうか。
私は国枝が現場を見て、正方形が相応しいと見極め選んだ可能性が高いと推測してみた。

 最後になってしまったが、この辺で国枝の略歴を紹介することにしよう。資料によると、国枝は「1886年大阪市(現在の)に生れる。本名・金蔵。92年大阪市立高等商業学校に入学。1902年学校にて運動中に右腕に負傷。03年井上病院に入院し手術を受ける。学校を中退する。06年山内愚僊、赤松麟作に洋画を学ぶ。08年関西美術院で鹿子木孟郎に学ぶ。09年関西美術会第8回競技会油絵の部で三等賞。10年関西美術会第9回競技会油絵の部で二等賞。11年関西美術会第10回競技会水彩の部で三等賞。16年第3回二科展に初入選。以後毎回のように出品。19年二科会会友に推挙される。21年の第8回二科展に<栴檀の木の家>などを出品。23年に会員に推挙される。24年小出楢重、黒田重太郎、鍋井克之と信濃橋洋画研究所を創設し、後進の指導に当たり、研究所展を開催。27年研究所展を全関西洋画展へ改称し会員として尽力。33年大阪新論画廊で国枝金三個人展開催。36年文展無鑑査となり、40年紀元二千六百年奉祝展には<秋の草>を出品している。41年堺病院に入院し、右腕切断の大手術を受ける。43年退院後、自宅にて療養中の11月20日没、享年58歳。44年大阪市立美術館で開催された春季二科展に遺作24点が特別陳列される。」とある。
 
今回、国枝の略歴を調べてみて気付いたのであるが、没後も各種の展覧会や雑誌に取り上げられているが、国枝単独の回顧展などが見当たらない事実に直面した。少なくともこれだけの実力者をほうっておく手はないと強く感じた次第である。せめて地元の美術館に取り上げて欲しいものである。
 注1、春季二科展目録には、3月15日―4月5日とあり、和暦の表示がなかったが、国枝金三が昭和18年11月20日に没していることから遺作特別陳列を昭和19年3月としている。
<参考資料>
二科70年史  浅井忠と関西美術院展図録   二科会画集(1917年)
二科1924  二科画集1926年  NIKA1925  第29回二科美術展覧会目録
春季 二科展目録  別冊 花美術館 芸術街道  美術50年史(森口多里著)
アトリエ第14巻第9号(二科会号)  みづゑ176号  みづゑ317号
みづゑ341号   みづゑ377号