粋狂老人のアートコラム
       灯台の絵を前にして、昔に観た映画の記憶を思いだす・・・大澤海蔵
       「コジキになっても、親をうらみません」と一筆書いた・・・

 
 私の育った場所は、子供の頃、近くに映画館がなかった。そのため年に数回、小学校や中学校の講堂で映画を観た記憶がある。映画上映の主催者は誰か知らなかったが、当時の話題の映画は、中央から少し遅れて田舎でも上映されていたようだ。そういえば私が小学生の頃、全校生徒が講堂で観た中に「沙漠は生きている」という映画が巡回してきた。初めて目にする総天然色(当時はカラーと言わずに)の画面に引き込まれたことを今でも鮮明に覚えている。子供ながらにその日の夜は興奮して、なかなか寝付かれなかったことまで記憶している。
 実は今回、灯台の絵を取り上げることにしたのだが、灯台について心に残った映画を観ていたことを思いだした。それは木下恵介監督が1957年に制作した「喜びも悲しみも幾年月」である。半世紀以上経過しても、佐田啓二と高峰秀子の灯台守夫婦が、全国の灯台に転勤する中で起きる悲喜こもごも、それらを余す所無く映像化していた。時を同じくして流行った若山彰の歌「喜びも悲しみも幾年月」もラジオから流れていたことをよく覚えている。私の中では、今でも映画と歌がワンセットになって心に残っている。

 ところで、例によって回り道となるが、物故画家たちはこれまでに灯台をモチーフにした作品を残していたのか調べてみた。コロナ禍のご時世でもあり、都心への外出は控えている身、手元資料のみと調査範囲は限られるが、それでも思った以上にみつかったので紹介すことにした。制作年の古い順に列挙すると、大下藤次郎<シドニー(1898年作、水彩)>、山本森之助<琉球の灯台1902年作、油彩)>、河久保正名<海岸燈台の図(1903年作、油彩)>、都鳥英喜<ノルマンデイー海岸(1919年作、油彩)>、安井曽太郎<犬吠岬(1934年作、油彩)>、藤島武二<室戸岬の灯台(1935年作、油彩)>、椿貞雄、<外川風景(1954~55年作、油彩)>、田辺三重松<神威岬(1969年作、油彩)>、小堀進<犬吠埼(1970年作、水彩)>、相原求一朗<風の日(カマレー灯台)(1979年作、油彩)>、松島正幸<荒れる犬吠(1986年作、油彩>などである。このように目的をもって画家たちの作品に触れてみると、それぞれのモチーフのとらえ方や画風、時代性が感じられ蒐集の参考になる。私はこの種の作業を厭わずに積み重ねてきた結果、作品との出合に大きな効果を実感してきた。また、これらの作品からみても、灯台は画家として取り組んでみたい対象なのかもしれない。

       
           夏の灯台(仮題)  33.5×45.5㎝

 前置きはこれくらいにして話の本筋に入ることにしよう。肝心の「灯台の絵」とは昭和の終わりごろに出合っていた。最初、作品から受ける印象は、平凡な風景画と思えたが、何故か壊れかかっているゴールドの額が気になり購入した。私にしては動機が不純(?)であるが、これだけの額に入っている作品であれば、いずれ名のある画家の作品に違いないとの思いであった。勿論、当時はサインを見ても画家を極めることなどできる知識もなく、あとは直感頼りであった。そのため、転勤族の身としては、家人から転勤の度に荷物が増えて困ると処分を匂わされつつも我慢して所蔵していた。それから5年ほど過ぎたころ、ようやく作者は「大澤海蔵」であることを突き止めた。
 
 絵は灯台を描いた風景画である。因みに風景画を入手すると、いつの間にか制作地を調べる習慣が身に付いてしまった。早速、制作地を調べてみたものの、残念ながら突き止めることは叶わなかった。それでも季節だけは、空や海、ヨットの描写から一目で夏の雰囲気を感じることができた。その上、当初は額にばかり関心があったのに、調査が進むにつれて作品に対する見方が大きく変化し、当初は真剣に絵と対峙していなかったことを実感している。

 構図を観ると、画面の中心に灯台と附属建物を配置し、取り囲むように七八本の低木が確認できる。海に面した高台周辺の傾斜地は草地で覆われ、画面左方半分ほどを海が占めるなど構図に工夫のあとが見られる。一方、浜辺から時計と反対廻りに半円を描くように灯台への通路が濃い目の茶系で描かれ、画面を引き締め、変化を与えている。空には右側から左方向に向かって横三列の細長い雲が描かれ、上空は風が強く、当日は雲の流れがはやかった可能性がある。忘れるところであったが、陽光は画面左側から射していることが、灯台をはじめ附属建物、草地、石段、低木などから手に取るようにわかる。この絵の良さは、何と言っても、午後の陽光を受けた傾斜地を太めの筆を使い薄緑や肌色で表現し、それが海や空の色といい具合に相まって何とも言えない雰囲気を醸し出していることであろう。この洗練された色使いは、渡欧で身に付けたものと推測している。

 最後に大澤の略歴を紹介しよう。資料によると、「1906年名古屋市生まれ。24年上京、川端画学校に通う。辻永に師事。25年第2回白日会展に出品、第3回サンサシオン展に出品、以後、第10回展まで連続出品。28年第15回光風会展で光風会賞、第9回帝展に初入選、サンサシオン会員。34年光風会会員。38年第2回新文展で特選。40年第27回光風会展で岡田賞。52年第8回日展で川合賞、政府買上、第28回光風会展で光風相互賞。56~57年渡欧。58年日展会員。61年第4回日展で文部大臣賞、後、日展評議員、第47回光風会展で出品作が政府買上。67年光風会理事。68年名古屋丸善で個展。70年名古屋丸善で個展、71年11月5日歿、享年65歳。」とある。その後、大澤きよ氏により83年画集大澤海蔵が発行される。

 余談であるが、「愛知洋画壇物語PARTⅡ」の大澤海蔵の項で、興味深い記述があるので紹介しよう。一部引用すると、『画家をめざすため、軍人であった父や兄たちの猛反対を押しきるべく「コジキになっても、親をうらみません」と一筆いれねばならなかったと、戦後わたくしどもでの個展のおり新聞紙上で述べている。やがて画業後期には、滞欧をへて「これからは東洋の洋画を描く」との決意のもと独特な作風をきずく、大澤は、戦中よく防空壕掘りにかりだされ、それが原因のひとつとなって戦後リュウマチをわずらう。それゆえ室内静物の制作が多くなり、しかも細やかな筆づかいが不可能になるほど悪化した。だが、それに反比例するかのごとく、透明感のある色彩やタッチをいかした薄塗りの効果が画業の深化のなかで増していく。』と紹介されており、大澤の画家として生きると決めた覚悟の程を垣間見た思いである。

<参考資料>
サンサシオン1923~33―名古屋画壇の青春時代展図録  日展史
白日会展総出品目録  光風会史―80回の歩み―  愛知洋画壇物語PARTⅡ
愛知画家名鑑  名古屋画廊の70年  小堀進展図録 
近代洋画・彫刻展図録  安井曽太郎(みづゑ 昭和十二年一月号)  
相原求一朗展図録