粋狂老人のアートコラム
       所在不明のパリ展覧会出品作≪裸婦≫かも・・・・寺内萬治郎
       気になる作家は、作品の特徴を調べることから・・・      

 
 今回は冒頭から裸婦の話しをテーマに進めてみようと思う。人によっては、裸婦と聞いただけで腰が引けてしまう方もいるようだ。私自身もこれまで同じような感覚で裸婦に接してきた記憶がある。具体的には、裸婦は自宅で飾って楽しむのでなく、美術館で観るものと勝手に思い込んでいた節がある。その思いが徐々に薄れていったのは、物故作家の回顧展等で裸婦画を目にする機会が増えて、自然に受け入れられてきたからかもしれない。

 因みに、これまでに物故作家の展覧会や図録などで目にし、印象に残っている作品は結構多い。例えば黒田清輝≪智・感・情(1897年白馬会展出品)≫、寺松国太郎≪櫛(1912年文展出品)≫、中村彝≪少女裸像(1914年(東京大正博覧会出品)≫、安井曽太郎≪孔雀と女(1914年)≫、満谷国四郎≪行水(1915年文展出品))、岡田三郎助≪水浴の前(1916年文展出品)≫、中村不折≪華清池(1925年帝展出品)≫、田辺至≪裸体(1926年帝展出品)≫、吉田卓≪羽扇を持てる裸婦(1926年二科展出品)≫、寺内萬治郎≪鏡(1930年帝展出品)≫、梅原龍三郎≪裸婦鏡(1930年国画会展出品)≫、宮本三郎≪ヴィーナスの粧い(1971年)≫などが思い出される。
これらの中でも近年上野で観た黒田清輝の≪智・感・情≫はサイズの大きさもさることながら、緻密な計算に裏打ちされたモデルのポーズに暫し見とれた覚えがある。幸いにも現役を引退し、毎日が日曜日の老人にとって、平日に美術鑑賞できる喜びを味わっている。しかも館内は独り占め状態で、心行くまで鑑賞することができ、まさにわたくし美術館のようであった。

勿論、物故作家だけにと止まらず、現役でも強い衝撃を受けた出合はあった。該当者は複数記憶しているが、今回は森本草介(当時は現役)と野田弘志を取り上げてみたい。私が開館を心待ちにしていた「ホキ美術館(千葉市)」を訪れたのは、たしか2010年の美術館オ-プン間もない頃であったと思う。美術館の外観や展示室の設計に目を奪われ、素人なりに「最新の美術館とはこのようなものか」と妙に納得したものである。
展示は若手作家を含め、どの作品を観ても、写真と見紛うほどの写実画で驚きの連続であった。そんな中にあって、森本の描く女性像は静謐な中にも穏やかさと品格を兼備え、他人に真似のできない森本ワールドを展開していた。裸婦を観ても品格があり、今までの裸婦画に対する見方を一変させる出合であった。しかも美術館が森本作品を36点所蔵していることも驚きであるが、森本に注目し収集した保木将夫氏の眼力に脱帽のほかに適当な言葉が浮かばない。森本作品に甲乙つけるのはおこがましいが、裸婦画では≪横になるポーズ(1998年)≫が一番印象に残っている。私は作品を目にした瞬間、モデルの指先に至る全身のポーズに画家の全神経が行き届いていると感じた。二人目は野田弘志である。美術館の地下2階展示室に一歩足を踏み入れた瞬間、裸婦画が突然目に入ったことを今でも忘れることはできない。私は裸婦画を観るのは慣れていたつもりであったが、一瞬、目のやり場に困った記憶がある。なぜならば、等身大を超える裸の女性が突然目の前に現れたら誰でも同じ思いをするのではないだろうか。しかも生身の裸体と錯覚するほどの野田の超細密な写実画である。これほどインパクトの強い出会いはないと思っている。参考までに画題を記すと、≪THE-10 THE-10(2007年)≫である。このように思いだしてみると、裸婦画と言っても、それぞれに画家の裸婦に対する取り組み姿勢や画風も異なり奥が深いことがわかる。勿論、今回紹介した画家はほんの一例に過ぎないが、それでも画家の作風を記憶しておくと、いざという時に役立つことがあると感じている。

          
           ≪裸婦(1953年)≫  25号
 
 ところで、私にも裸婦画との出会いがあった。絵にはサインが無く作者不詳であったが、絵の雰囲気から記憶の欠けらが動いた気がした。私の記憶では即座に寺内萬治郎の可能性が浮かんできた。私はこれまでに目にした裸婦画について、注目している作者は、私なりの方法で特徴(癖?)を記憶するように訓練してきた。裸婦画を数多く制作してきた寺内についても、数少ない図録などでモデルのポーズを調べていた。ところが目の前の裸婦画は、私の調べたポーズには該当するものが無く初めて見るポーズであった。私は調査を一瞬諦めかけたが、幸いにも「名古屋画廊の70年」に掲載の第2回紫潮会洋画展(昭和25年9月開催)(注1)に展示された寺内の図版(裸婦)のポーズを記憶していた。図版のポーズは手元の裸婦画と足の組み方こそ違うが、モデルも構図も同じである点に胸騒ぎを覚えた。当然、画家であれば、同じポーズで足の組み方を変えるポーズもあると確信したからである
 それから本格的な調査に取りかかることにした。ところがこの期に及んで、寺内に関する資料は乏しく、図録の入手から始めるというお粗末なスタートとなってしまった。それでもいざというときの神頼みではないが、古書の街、神田神保町の助けをかりることにした。運よく一度の買い出しで目的の図録も入手でき、作業に取りかかることが出来た。まずは画集や図録の図版を片端から確認し、手元の作品と同じポーズの作品を探してみた。結果は該当なしの全敗であった。ここで諦めないのが私の性分とばかり、調査対象を図版から年譜に変えて調べ始めた。

      参考図版「1985年寺内萬治郎展図録 年譜掲載」
   
 すると幸運の女神が微笑んだのか、遂に同じポーズの図版を見つけることに成功した。それは1985年開催の寺内萬治郎展図録掲載年譜の昭和28年に「サロン・ド・ラール・リーブル(パリ)」出品作の≪裸婦≫であった。掲載図版は小さいが、鮮明なモノクロ写真でまさに手元の裸婦と同じポーズであった。この種の瞬間は、今まで何度も味わってきたが、思わずガッツポーズが出る思いであった。
 一方、私はこの時点においても冷静で、次のステップに進もうと考えていた。私の関心は、寺内がサイン無し作品を数多く残している事実、更には手元の裸婦画と類似の作品図版は、モノクロで縦横3センチ程度の小さいサイズしか残っていない点に絞られた。そのため贋作者がモノクロ図版から25号の大作を制作するのは、まず不可能と判断した。唯一描けるのは手元に下書きやデッサンなどが残っている画家本人説をとるのが自然であると結論付けた。勿論、絵にはサインもなく贋作には該当しないことは、入手当時からわかっていたことである。また、画家が同じモチーフの作品を二枚制作する話を何度か耳にしている。今回のケースについて言えることは、寺内はパリまでの長旅を考慮し、予め二枚制作したことも十分考えられる。一方、展覧会図録等で支持体を調べると、板の使用は僅かに戦前に制作された4号以下の小品のみで、大きいサイズは全てキャンヴァスを使用していたことがわかった。因みに手元の≪裸婦≫は唯一板(合板)に描かれており、私はこれらの事実を踏まえて、パリの展覧会出品の為に特別に板を使用した可能性が高いと判断した。

 他にも寺内の作品について参考になる情報がある。展覧会図録掲載の三宅正太郎氏の解説によると、裸婦像の肌の色について「初期の裸婦は肌が黄味をおびてやや冷ややかであるが、しだいに赤みが強くなる」と説明していた。手元の≪裸婦≫に当てはめてみると、三宅説に合致し少し黄味がかった肌合いと感じている。

 作品の説明が後回しとなったが、この辺で肝心の絵の話しに戻すことにしよう。寺内はパリでの展覧会出品作を意識し、構想段階からかなり力が入ったはずである。そのためモデルのポーズにあれこれ迷ったのではないだろうか。一見有り触れたポーズのように見えるが、実際はモデルを椅子に座らせて色んなポーズを試した結果、このポーズに落ち着いたとみている。絵と対峙すると、計算しつくした苦心の跡が感じられる。
一方、あらためて構図を観ると、モデルは椅子に座り、笠木に左腕をのせ、右腕を重ねた上に顔を預け、右足の上に左足を組んだポーズをとっている。左手は顔を受け止め、笠木に任せた状態で身体を支えていると思われる。モデルの髪は肩の辺まであり、当時の流行りであったのかもしれない。私はモデルの視線にも注目し、画面に近づいて確認すると、左足の指を見ているのではないかと思えてきた。因みに、私の気になる光の表現は、モデルの顔の一部や背中などに、左手前上方向から光を当てて陰影をつけ立体感を表現していることが確認できる。画面全体として、暗褐色の中の裸婦の描写は、どっしりした安定感を生み出し、寺内ならではの独自のフォルムが生まれた力作と考えている。

紹介が遅れてしまったが、参考までに寺内の略歴を簡単に紹介しよう。寺内は「1890年大阪市南区に生まれる。1905年天彩画塾で松原三五郎に師事。09年東京美術学校を受験するも失敗。11年東京美術学校西洋画科に入学し、16年同校卒業する。22年中村彝、中村研一、鶴田吾郎、曾宮一念らと「金塔社」を結成する。25年第6回帝展で特選。26年第7回帝展で無鑑査。27年第8回帝展で特選。28年第9回帝展で推薦。29年光風会会員。33年第14回帝展で審査員を務める。34年光風会展第21回展評議員。寺内萬治郎画集刊行(美術工芸会)以後、第五輯まで刊行。39年日本大学芸術学部講師となる。41年朝鮮美術展覧会審査員となり京城に旅行。42年陸軍省派遣画家としてフィリピン、セレベス等へ派遣される。43年東京美術学校講師となる。44年門下生と武蔵野会を結成し、以後、第10回まで開催し、55年解散する。48年第4回日展で出品依嘱。50年第6回日展で日展運営会参事。51年第1回埼玉県展審査員となる。昭和51年度日本芸術院賞受賞。53年サロン・ド・ラール・リーブル(パリ)に出品。埼玉県美術家協会が結成され、初代会長となる。58年日展評議員となる。60年日本芸術院会員、日展理事となる。64年12月14日東京で没、享年74歳。」とある。

最後に寺内が生前に残した言葉で興味深い話があるので付け加えておきたい。それは「日本人のモデルは小麦色で西洋人のようなフワフワしておらず、弾力的で実にいいですね。それも世間的には美しくないといわれるような背の低い、足の太いズングリした安定感のある人がよい。ポーズによって八頭美人にない素晴らしさがあります。」と“裸婦を描いて40年・豊かな日本女性”(昭和34年10月16日 埼玉新聞)のなかで話した内容は、まさに寺内の裸婦に対する取り組み姿勢を端的に表していると思っている。

 余談であるが、寺内の活動内容調査の中で実に興味深い情報を見つけた。それは「にっけい・アート(1991年2月号)」掲載のオークション情報によると、1990年シンワ・アート・オークションで寺内萬治郎の≪裸婦(1930年第11回帝展出品、100号)>が驚くことに11,000万円で落札されていた。さらに同年の第105回JAAオークションでも≪裸婦(1928年、41×31.8㎝)≫が485万円で落札されていたことに正直驚いた。これらの情報を目にすると、寺内は当時も高い評価がされていたことがわかり、他人事ながら我事のように嬉しい気分になるから不思議である。

 注1、紫潮会:現代(昭和25年当時)、婦人像を描くわが洋画界で四指に屈される寺内萬治郎、木下孝則、宮本三郎、小磯良平ら4人のメンバ―によるグループ展の名称である。
 注2、画像処理の関係で、<裸婦>の画像が実物より白茶けた画像になっている。
<参考資料>
現代作家美人画全集洋画篇(上巻)  現代作家美人画全集 洋画篇(下巻)
安井曽太郎展図録  黒田清輝展図録  岡田三郎助展図録  日展史
寺内萬治郎画集  寺内萬治郎展図録(1978年)  吉田卓展図録
寺内萬治郎展図録(1985年)    梅原龍三郎遺作展図録   
中村彝・中原悌二郎と友人たち展図録    満谷国四郎展図録  
HOKI COLLECTION  光風会史―80回の歩み―
光風会100回記念 洋画家たちの青春―白馬会から光風会へ―
名古屋画廊の70年  没後25年 写実と幻想の巨匠 宮本三郎展図録
にっけい・アート(1991年2月号)