粋狂老人のアートコラム
       不覚にも迫真の描写に釘付けとなる・・・・・結城正明
       大観や菱田春草も指導を受けた逸材も埋れて・・・・

 
 「新書画の価格(清水不濁編 昭和16年6月15日五版)」の「マの部」を見ると、「正明 結城(画)」として次のような説明文が掲載されている。掲載内容によると「本姓壷川、越中富山の人、東京住、狩野雅信の門、明治初年青野桑洲に銅版彫刻を学ぶ、明治37年歿、年71歳。価格八十円。」とあった。正明に対する戦前の評価が適正かどうかは兎も角として、例えば洋画家では、片多徳郎が千五百円、青木繁が三十円、徳永仁臣が二百五十円、日本画では、狩野芳崖が一萬円、山元春挙が五千円、寺崎広業が千円など確認できる。これらは本の一部にすぎないが、時代により作者(画家)の評価が大きく変化する証とみてよいであろう。

 今回は書出しから回り道をしてしまったが、「新書画の価格」掲載の明治の銅版画家、結城正明作品を紹介するための思い付きからである。この作品との出合は、今から10年以上前であったが、作品を目にした時、全身が硬直するような体験をしたことが鮮烈に蘇ってくる。誰しもこの作品を目の前にしたら、眼光の鋭さや目をみはる写実に思わず引き込まれてしまうに違いない。いつもの私であれば、作品を前にして即座に作者が誰かと考える余裕がある。ところが今回は、迫真の描写を前にして心の余裕を失ったようで、しばらく呆然と眺めていた。構図をみると、宗教画であろうか、光輪が頭上に浮き、髑髏に手を組む老人を描いた図柄である。目を引くのは、髪の毛、髭、顔を含む肌の描写と相まった眼光の鋭さにただ者ではない強い印象を持った。同時にこの機会を逃してはならないとの強い思いが湧いてきた覚えがある。勿論、一般家庭で飾って楽しむには、少し違和感があることも承知の上の事であった。この頃は時折納戸より出してきてはながめ、また収蔵することを繰り返しながら楽しんでいる。いずれにしても、私にとって大事にしたい逸品と考えている。
 
 私は結城が何を描いたのかに注目し、調べることに関心が移って行った。調査を開始すると、意外と簡単に緒方富雄著「日本におけるヒポクラテス賛美 日本のヒポクラテス画像と賛の研究序説(東京:日本医事新報社、1971)」が見つかった。一部を引用すると「明治10年から30年頃まで、日本の医者たちは、医師新村淳庵が画家結城正明に作らせた、ヒポクラテスとはかけ離れた聖ヒエロニムスの画像をヒポクラテスだと思って愛蔵していたことである。異様に迫力のある表情をして、光輪が頭上に浮き、死の象徴の頭蓋骨に手を置くヒエロニムスがヒポクラテスだと思われたことには、何かの意味があるのか、それとも単なる偶然なのか。これは、明治27年に留学中で後に東大の内科の教授となる入沢達吉が日本の医者たちの誤解を指摘して、当時の欧米で受け入れられていた、石像に基づくヒポクラテス画像を作成した。ただ、現在では、この石像そのものがヒポクラテスではないとされている。」とあった。私はモデルが誰であれ、作品自体に満足しており、これ以上深入りするつもりはなく、モデルの特定は専門家に託すべきと考えている。

          
           ヒポクラテス像  44×37.5㎝ 

 ところで、調査の途中で目にした情報を参考までに紹介したい。内容としては結城にとって不利な情報かもしれないが、一方で後年この種の評価をしていた人物もいたことを紹介することは、大切なことと思っている。具体的には、石井柏亭が自著「日本絵画三代志」の中で『越中富山の人結城正明にヒポクラテス像の模刻と「矢作橋上の日吉丸」との銅版画があるが、彼は狩野勝川に日本画を学んだだけで洋風画の素養が乏しく、写形、明暗等の知識を欠いて居たので、その努力にも拘わらず日吉丸の銅版はあまり面白いものとは云えない。』と書いている。私は「矢作橋上の日吉丸」を観ていないので、先入観にとらわれることもなく白紙状態であるが、少なくとも「ヒポクラテス像」を観る限り、柏亭の評価をそのまま鵜呑みにすることはできないと考えている。

 この辺で結城の略歴を紹介しよう。資料によると、「1840年1月15日(注1)越中富山柳町に金沢藩士の子として生まれる。本姓は壷川。55年6月に15歳で上京。木挽町狩野派の狩野勝川雅信に入門。同門に狩野芳崖や橋本雅邦がいた。60年江戸城本丸焼失による新築御殿障壁画の御用を師雅信と共に参加して200石の支給を受けた。68年留守官大学校で会計を担当。70年留守官を辞めて、同門であった青野桑洲について洋式銅版画を習う。73年再び上京し、紙幣寮に入る。ウイーンから帰国した岩橋教章に師事する。その後、神田小川町に明辰社を営む。77年頃、医師の新村淳庵の依頼により<ヒポクラテス像>を制作し発売する。77年第1回内国勧業博覧会に銅版画≪必ト格羅垤ノ像≫を出品し受賞。同展覧会には、このほか日本全図・諸県の精巧な銅版画地図を文部省より出品。81年第2回内国勧業博覧会に≪矢矧橋上の日吉丸≫を出品。82年第1回内国絵画共進会に≪飲中八仙≫、≪龍≫を出品。84年に艦画会が結成されると、狩野芳崖、橋本雅邦、木村立嶽らと参加。85年フェノロサの第1回艦画会に≪山水≫≪伯夷叔斎>を富山から出品。88年東京美術学校創立時に日本画科雇となり、89年東京盲学校兼務。90年第3回内国勧業博覧会に≪神功皇后洗髪図≫を出品し三等妙技賞を受賞。91年東京美術学校助教授。93年非職を命じられる。96年非職満期となり、東京美術学校との縁は完全に切れた。97年≪富士の巻狩≫制作。門下に横山大観、菱田春草がいる。1904年3月6日歿。享年65歳。」とある。

 私は明治初期から中期にかけて当時の医者たちが、この銅版画を愛蔵していたことからして、大震災や戦災を受けたとしても、未だ作品が作者不詳で巷に埋もれている可能性を期待している。一方、有力美術館が同じ作品を所蔵しているということは、作品、作者の価値を認めていると考えており、重要な新発見につながったと一人満足している。

 最後に興味深い事実を紹介しよう。実は森口多里が「美術八十年史」の第五章 明治大正の版画芸術のなかで、「桑洲の銅版術の門人には結城正明(明治37年71)があった。正明は素明の父である。」と解説していた。私は日本画家の結城素明(1875~1957年)が正明の子息であることを疑うこともなく、暫くの間信じていた。ところが今回コラムを書くにあたり、念のため調べてみると正明と素明は縁もゆかりもないことが判明した。素明は「1875年12月10日東京本所荒井町に、「池田屋」という酒屋を営んでいた森田周助の次男として生まれ。本名は貞松といい、10歳の頃、親類の結城彦太郎の養嗣子となっていたことがわかった。」森口多里氏は何を根拠に素明を子としたのか、今となっては知る由もないが、古い資料を鵜呑みにしてはいけない教訓を貰った思いである。
注1、結城に関し、森口多里説は天保5年説をとり、その場合、没年齢は享年71歳となる。 「新書画の価格(清水不濁編)」でも没年71歳とあるが、今回はとりあえず65歳説を採用させてもらった。

<参考資料>
日本近代美術発達史(明治篇)  新書画の価格(昭和16年版)  版画(小野忠重著)
於巴里日本現代版画展準備展覧会目録(昭和8年)  美術八十年史(森口多里著)