粋狂老人のアートコラム
丁寧な調査から画家に辿り着いたはずが・・・・・桜井忠剛
失敗談も時には役に立つのではとの思いから・・・
振り返ってみると、それは一枚のキャンバスボードに描かれた古い風景画との出合であった。当時の私はと言えば、私好みの作品に一目で気に入り購入した覚えがある。作品にはサインがあるものの制作年はなく、おそらく大正から昭和初期頃の作ではと思えた。サインは「T.SAKURAI(実際はTとSが合体している)とあり、当時の知識から桜井知足と桜井忠剛の名前が候補として浮かんだことを忘れもしない。
作品は画装されており、いつもの手順で作品の止め釘を確認すると、錆びた状態から一見して元額と判断した。さらに額の裏にはカワチ商店(実際には、S.KAWACHI SHOTEN SHINSAIBASHI OSAKA)のシールが確認できた。私はいつのまにか身についた習性から、カワチ商店を調べてみると、大正9年に大阪心斎橋に店を構えたことがわかった。この時点では、知足、忠剛のどちらの画家なのか作者を特定するには至らなかった。
私の間違いの発端は、忠剛の略歴を確認したことに起因する。それは資料によると、忠剛が明治36年に尼崎に帰る。明治38年尼崎町長となり、画作から離れたとあったことから、大正9年開店のカワチ商店から額縁を買うことはないであろうと早合点したことである。そのうえ悪いことに、両者の画風のチエックがいつの間にか疎かになり、気持ちが自然に桜井知足に傾いてしまったようだ。現在であれば、知識もそれなりに増え両者の画風の違いもわかるが、当時は手元の資料も少なく、忠剛の年代別の画風やサインのチエックも今一つ満足できるものではなかったと感じている。
今まで先輩諸兄から聞かされたのは、つい「欲をだしたがうえの失敗談」であったが、欲を出さなくとも失敗することを学ぶ機会となってしまった。勿論、言い訳するするつもりはないが、失敗したからと言って、実害があったわけではないことが救いである。
その後、手元には図録などの関係資料も増加し、忠剛の多くの図版も確認できるようになった。ある時、関西美術院関係の画家を調査中に、忠剛作品の中に手元の風景画と同じサインがあることに気付いた。私は一瞬、そんなはずはないと思いながら、手元の風景画と図版のサインを見比べてみた。すると間違いなく同じサインであった。もうここまで来たら、私の間違いを認めざるを得ないと、寧ろさばさばした気分になれたことを不思議に思っている。恥をさらすようであるが、やはり長年にわたる作者特定に携わっていると、このような間違いも起こりえることを実感した出会いであった。
小舟で荷物を運ぶ風景 23.8×33.0㎝
肝心の作品について紹介しよう。この作品で最初に目に付くのは、川の両岸にせり出した平坦な岩場である。その肌色の岩場の色合いが川面のブルーと相まって画面に何とも言えない雰囲気を醸し出している。さらに両岸に迫る山の表現が、左側の山は濃い目に表現し、右側に連なる山は濃い目から薄めに描くなど遠近感をさりげなく表現するなど心憎い。画面には左側下部に二艘の小舟が係留され、中央下部には、荷物を積んだ小舟を操る人物も描かれ、船着き場に到着する様子を描いたと思われる。一方、三割ほどを占める空に目をやると、
両岸の山が交差する当たりの上空の雲は、何やら不穏な雰囲気も感じられる。一見して長閑な小舟を漕ぐ風景とは裏腹に何かの前触れを感じさせる臨場感が伝わってくるようだ。自宅に飾って楽しんでいるうちに気付いたことがある。それは両岸の岩場、小舟の陰、所々の水面の表現、右側遠方の薄い色彩の山、更には薄いピンク系の雲を見ると、夕焼けが見られる時間帯に現場で描いたことに思い至った。私は小品ながらサイズを感じさせない出来栄えに満足している。
最後になったが、略歴について触れることにする。資料によると桜井は「1867年松平家第四代尼崎藩主桜井家の一族として生まれる。76年上京。中村敬宇の「同人社」や「攻玉社」で学ぶ。82年勝海舟邸に寄寓し、池田口南に南画、川村清雄に洋画を学ぶ。87年東京工芸品共進会で<子猿ノ図>が妙技2等賞受賞。89年第1回明治美術会に出品。90年第3回内国勧業博覧会で<鷲>が褒状を受ける。94年この頃、尼崎に戻る。松原三五郎らと大阪で関西美術会(第1次)を結成する。98年第4回新古美術品展で<紅葉狩ノ図>3等賞銅牌受賞。この頃、京都に住む。99年第5回新古美術品展で<庭園図>が3等賞銅牌受賞。1900年第6回新古美術品展で<四天王ノ図>が三等賞銅牌受賞。01年田村宗立、伊藤快彦らと京都側委員として関西美術会創立に参画した。第7回新古美術品展で<一桜>が2等賞銀牌受賞。02年東山霊山明烏温泉東入にアトリエを新築する。03年郷里の尼崎に帰る。05年請われて初代尼崎町長となり、やがて洋画界からはなれていった。11年山内愚僊の後任で大阪高等商業学校の教師。16年尼崎が市制に移り初代市長となる。34年尼崎市長在任中に気管支炎のため没、享年67歳。」とある。没後も65年「京都洋画の発展」展。99年「京都 洋画のあけもの」展。2005年「桜井忠剛と関西洋画の先駆者たち」展。06年「浅井忠と関西美術院」展。08年「静物画名作コレクション」展。17年リアルのゆくえ展などに作品が展示されたことが手元資料から確認できる。
<参考資料>
京都 洋画のあけぼの展図録 浅井忠と関西美術院展図録
日展史 大正期美術展覧会出品目録 京都洋画の発展展図録
静物画名作コレクション展図録 美術八十年史(森口多里著)
リアルのゆくえ展図録