粋狂老人のアートコラム
      手紙も絵入りとなると受け手の喜びも倍加する・・・・荒川豊蔵
      余技の域を超えた荒川の絵に思わず・・・・

 
 数年前の一時期、テレビや新聞等で断捨離が話題になり、世間では重い腰を上げた老人たちも多かったのではないだろうか。我が家も人並みに断捨離を実行した一人である。手順としては、最初に大物から取り掛かり、徐々に小物に目を向けて行った。小物類には写真やはがき、手紙類も含まれていたが、はがきの処分には散々迷ったことが思い出される。何か処分することで、相手(書き手)と縁が切れてしまうようのではないかとの不安が過ったことが原因かもしれない。一方で小物の断捨離は、処分したところで、空きスペースは小さく達成感が満たされないことも迷いの一因と思われる。

 私はこれまで細々と作者特定を趣味としてきた関係で、作者本人や遺族の方などに照会する機会が増えて行った。そのため関係者からの返事の手紙もそれなりに集まってきた。これらは私にとって、大変貴重で私の宝ものである。特に作者本人からの手紙類は大切に保管している。勿論、遺族の方からの手紙も先方の喜びが伝わってくるようで、当方も作者特定作業の満足感を味わっている。

 はがきと言えば年賀はがきも当然のことながら断捨離の対象になった。勿論、処分の際は、一枚一枚残すかどうか確認作業が伴う。そこで気が付いたのであるが、版画家の高橋シュウ氏の年賀状が10年以上前から届いていたことに気付いた。しかも、毎年手作りの版画であり、思わず嬉しくなった。これは12枚をまとめて額装すれば、立派な作品になると思いついたからである。更に庄漫氏のように現在進行形の作家も存在し今後が楽しみである。

 私が今回取り上げるのは、名古屋在住の頃に入手した軸装された礼状である。記憶を辿ると、たしか昭和57年前後であったと思う。懇意にしていた骨董商(茶道具専門)から、出入りして三年程過ぎたころ、この軸を見せられた。当時の私は茶碗に調味があり、ぼちぼち買い集めていた頃であった。当時の勤務は週休二日制で、その日(土曜日)は交代制の出番であったため、午前中は仕事であった。私は午後退社後に骨董店に直行したことを覚えている。骨董店との付き合いが長くなると、店に顔を出すたびに、奥から商品を大事そうに抱えて来て見せてくれた。いずれも高価で私のような若造には高値の花なのに、飽きもせず都度丁寧に説明してくれた。今頃になって、無料で骨董の勉強をさせてもらったと思っている。
 その日も店の奥に姿を消したと思ったら、暫くして桐箱を小脇に抱えて店に出てきた。店主は慣れた手つきで箱から軸を取り出し、長押(なげし)の金具に軸をかけて、両手で軸の両脇を持ちながら最後までするすると下げた。すると和紙に書かれた文字と淡彩の絵が現れた。私は透かさず店主に尋ねると、荒川豊蔵(1894~1985)から藤原啓(1899~1983)宛の礼状とのことであった。当時の私は、荒川は志野焼と瀬戸黒の人間国宝で、藤原も備前焼の人間国宝であることを知っていたので、凄い珍品の出現に吃驚したことを覚えている。しかも荒川の文人画のような画風が、なんとも言えない味わいをだしており一目で欲しくなった。私としたことが、価格も聞かずに譲って下さいと口走ってしまった。店主は暫く手元に置いておくつもりであったようで、その場は価格も言わずに時間は充分あるようなことを話して私を煙に巻いた。

    
     絵手紙(礼状)  表装サイズ110×84㎝(手紙19.4×79㎝)

 私は店主の説明を聞くまでもなく、軸に描かれている文人画風の絵と短い文章から、すぐに荒川から藤原啓氏宛の礼状とわかった。藤原は山国(岐阜県)から訪れた知人への心づくしの持て成しとして、瀬戸内海で行われていた漁法の一つである坪網(注1)を舟上から見学する機会をお膳立てしたと思われる。当然、藤原の思惑は的中し、荒川一行は大喜びであったことが画中からも感じられる。参加者は荒川の記憶によると、藤原、金重陶陽(備前焼人間国宝)と荒川の小学校学友などであったようだ。因みに、私は本来切れ味のよい写実画が好みであるが、年齢と共に酒井三良(1897~1969)や荒川豊蔵の描くほのぼのとした画風に強い関心を持ち始めた時期と重なったと考えている。

 出会いから2年ほど過ぎたころ、ようやく店主から問題の軸(絵手紙)を分けて貰う事ができた。店主は何が何でも売り込もうとする商いはせず、時間をかけてじっくり相手を観察し、お眼鏡に叶った頃合いを見計らって譲り渡す商売をしているようだ。初めはわからなかったが、何年か出入りするうちに、店主の姿勢に魅かれた固定客が多い理由も徐々にわかってきた。そして、勉強のために見せる物と客に薦める物を明確に区別していることもわかってきた。そのため入手は出来なかったが、名品に近い物も手にとり確認することを経験したことが、今となっては貴重な経験であり、私の宝物であるといってよいであろう。

 ところで、此の軸(絵手紙)を入手した際、一寸したサプライズがあったので紹介しよう。実は軸の購入を決めた時、軸は桐箱に入っていたが、箱書きなどはなく、所謂、共箱ではなかった。当時の私はといえば、共箱に拘るほどの知識もなく無頓着であったようだ。しかし店主は軸が売れた場合は、予め絵手紙の作者である荒川に箱書きをお願いするつもりであったことがわかった。結果として、代金は支払ったが、現物を受け取るまで半月ほど待つことになった。後で店主から聞いた話であるが、荒川は軸を目にすると、当時の事を思いだしたのか懐かしそうに少し饒舌になったと聞いた。しかも喜んで箱書きを引き受けてくれたとの報告を店主から受け、安心すると同時に嬉しくなった覚えがある。

 その後、待望の軸の箱書きが完成し、店で預かっている旨の連絡が入った。
私は取る物も取り敢えず急ぎ店に駆け付けると、そこで店主が見せてくれた桐箱には、荒川の人柄が一目でわかる内容の箱書きであった。私は勝手な思い込みから箱の表に「礼状」「荒川豊蔵作」程度の通り一遍の墨書きだけを想像していた。ところが実際は、嬉しいことに桐箱の蓋の内側に坪網見学の参加者名を丁寧に書いてくれていた。私はこれまで日本画や陶磁器類の箱書きなど多く目にする機会があったが、このような礼状の内容がわかる丁寧な箱書きは初めてであった。一方、荒川については個展会場で、遠くから姿を見かけた程度で、図録等で作品を観ていたので、人柄までは知るチャンスはなかった。しかし、箱書きが縁で荒川の誠実な一面を垣間見たと思っている。勿論、骨董商(茶道具専門)と荒川との長年の商いの信頼関係が背景にあると、私にも容易に推測できる出会いであった。

 余談であるが、以前に目にした「米倉兌墨彩展図録(昭和57年10月)」(注2)に荒川豊蔵氏が「米倉さんの絵」の題で紹介文を書いていたことを思いだした。一部を紹介すると「私は生来、文人画を好み興にのれば時に絵筆をとって趣味三昧にふける事がしばしばである。数年前 隅々三越の美術画廊で米倉さんの絵に接する機会があった。一枚、一枚の画面ににじみ出ている快い薄墨の諧調と彩色の調和が大変見事であった事を覚えている。以下省略。」とあり、荒川も偶然に三越で開催中の米倉兌の作品を目にし、好みの文人画に思わず足を止めたことが想像できる。やはりある領域に到達した人たちには、動物的な感が働くのか、不思議と先方から自分の好みの作品が近づいてくるようだ。

 注1,坪網:坪網とは海面に網を施設し、産卵のためや餌を求めて沿岸を回遊してきて網に迷い込んだ魚を漁獲する定置網漁のひとつです。(つぼあみや情報を参照)
 注2、米倉兌:1913年福島市生まれ。仙台商業学校卒業。神戸洋画研究所に入門、浜田葆光に師事。水彩画を別車博資に学ぶ。34年二科展入選、以後42年まで連続入選。34年第21回日本水彩画会展に初入選、以後、22~24回展に入選。40年兵庫県展委員。関西水彩協会会員。日本美術連盟会員等。神戸三越で個展。皇紀二千六百年奉祝展招待出品。47~72年県立高校美術教論。67年初の水墨画個展。72年三越本店で墨彩画個展。以後三越各店で墨彩画個展開催。90年銀座・和光ホールで墨彩展。2000年没、享年87歳。 
<参考資料>
藤原啓のすべて展図録
人間国宝シリーズ 1 荒川豊蔵(重要無形文化財 志野・瀬戸黒)
日本のやきもの 現代の巨匠6 荒川豊蔵  生誕百年記念 荒川豊蔵展図録
日本のやきもの 現代の巨匠13 藤原啓   縁に随う(荒川豊蔵著)
米倉兌墨彩展図録    チャイム銀座(1990・7・8)