粋狂老人の
       事前準備を万端整え、念願の美人画に出合う・・・・・中村大三郎
       急がずじっくり出合いを待ち、目的に辿り就く・・・・ 

 
 私は数年前から収集を軌道修正するため少しずつ準備を始めてきた。発端は納戸が作品で手狭になったため、“かさ張る”油絵(額装)の買い入れは止めざるをえなくなった。とはいっても、今更収集をすべて止めてしまうことなどできるはずもなく、そこでかさ張らない軸装の日本画に目を向け収集を続ける道を選択した。ところが、洋画なら多少の知識を身に付けてきたつもりであるが、日本画となると、まったくの門外漢である。そもそも誰の作品を集めたいのかさえままならない有様であった。

 今思いだして見ると、その様なときに雑誌で偶然目にした作品が気になった。これは調べてみる価値があるとの思いが直ぐに湧き、行動に移した覚えがある。調査が進む中でなぜか、当時は直ぐにでもお目当ての作品が入手できると錯覚する低次元の知識しか持ち合わせていなかった。今思いだしても恥ずかしいことである。それでも時間の経過とともに、数人の候補者に的を絞り調査を続ける心の余裕が出来てきた。その中で筆頭に挙げたのが、「中村大三郎」である。理由は洗練された色彩感覚と並外れた技量に注目したこと。特に図版で目にした作品≪ピアノ≫の印象が非常に強かったこと。さらに画業半ばの50歳で亡くなっていたことが決め手となった。

 ところがいざ行動に移したのはよいが、大三郎は既に評価が定まっている画家であった。当然、人気があり、金欠状態の老人の出る幕はないことを作品と出合うたびに嫌という程思い知ることとなった。

 それから数年経たころ思わぬ出会いが待っていた。久しぶりに某所のリサイクルショップをのぞいたとき、中国製と思える人物画や山水画の軸物が、五、六本壁面に架かっているのが目に入った。リサイクルショップだけに期待せずに近づいてみると、案の定お土産品の安物であった。ところが回りを見渡すと、綺麗なボール箱に巻かれた状態の掛軸が3本入っていることに気付いた。勿論、桐箱もない裸の状態である。私は大して期待もせず、その中の1本を手に取り店員に声をかけた。すると店員から自由に見て下さいとの答えが返ってきた。気配を感じ振り向くと、店長と思しき男性がにこやかに近づいてきて“数日前に店頭で買い取った品ですよ”と教えてくれた。
私はこれ幸いとばかり1本を手に取り、巻物を広げると、1本目は出来の悪い花鳥画ですぐに巻き戻した。2本目は山水画であったが、これも稚拙な描写で期待外れであった。そのうえ2本とも達筆すぎて銘も読めなかった。これでは3本目も期待できそうもないと思いつつ左手で軸を持ち、右手で少しずつ広げていくと、何と目の前に綺麗な美人画が現れた。私はその瞬間、前の2本とは異なる胸騒ぎのような心の動揺を感じた。ひょっとするとこれは化けるかもと直感し、右手の震えを抑えつつ軸を徐々に広げていった。すると軸の左下部に「大三郎と落款」が確認できるではないか。その瞬間、心臓がバクバクしたことをはっきり覚えている。それは以前に調べて記憶している紛れもない中村大三郎の銘と落款であった。しかも嬉しいことに、ボール箱には3本ともに廉価な価格の正札が貼ってあった。私は急ぎ軸を巻き戻し、この機会を逃す手は無いとばかり、代金を支払いそそくさと店を後にしたことを覚えている。他人が聞いたら“なんと大袈裟な”と笑うかもしれないが、私にとっては長年の思いが叶い、心が満たされた瞬間であった。やはり人にはそれぞれに作品との出合があり、慌てずじっくり機会を待つのも収集のこつであることを再確認できた出会いであった。

 

   秋意(仮題)113×23
 ところで肝心の作品に目を向けてみよう。作品は軸装され絹本に描かれた気品さえ漂う美人画である。ポーズは島田髷に洗練された紅葉模様の振り袖姿で草履履きの女性が、両手で桔梗を眺めている立ち姿を描いている。女性の周りには薄が描かれ秋を感じさせる構図が見て取れる。因みに桔梗は秋の七草のひとつであり、季節は9月頃であろうか。画面を見ると、初秋の雰囲気を出すためか、その意図が充分伝わってくる。勿論、画面に描かれた対象は、好みの写実画でしかも丁寧な描写が目を引く。しかも年数の経過にもかかわらず滲みも少なく状態は良く、大事に取り扱われていたことを物語っているようだ。惜しいのは共箱でなかった点であるが、共箱であれば当然高価で、私の出番はなかったであろう。一方、共箱ならば作品の画題もわかったはずであるが、悔しいかな画題はわからず仕舞である。
 表装については、専門外であるが、素人から見ても京都人の粋のようなものを感じる拵えと思っている。しかも注目したのは、軸先が象牙でなく漆塗りに絵が描かれている凝りようである。若しかしたら注文主の希望に答えた可能性も考えられる。

 この辺で大三郎を理解するうえで大事な略歴を紹介することにしよう。資料によると、大三郎は、「1898年京都市下立売小川に、染織関係に従事する家の長男として生まれる。1911年京都市立美術工芸学校絵画科に入学。16年同校卒業。同年京都市立絵画専門学校に入学。18年第12回文展に初入選。19年京都市立絵画専門学校を首席で卒業。第1回帝展に≪双六≫が入選。20年第2回帝展で≪静夜聞香≫が特選受賞。以後、3~4、6~7、9、11、14~15回展に出品。21年京都市外太秦村字嵯峨野に転居。22年第4回帝展で≪燈籠のおとど≫が特選受賞。大阪高島屋で第1回個展。「九名会」が結成され堂本印象らと一員となる。24年京都市立美術工芸学校教論となる。大阪高島屋で第2回個展。25年京都市立絵画専門学校助教授となる。26年第7回帝展で妻をモデルに描いた≪ピアノ≫が帝国美術院賞候補となる。帝展委員となる。28年帝展審査員に選任される。33年中村大三郎画塾創立。34年京都綜合展≪女人像≫出品。36年昭和十一年文展招待展出品作≪読書≫が政府買上げとなる。同年京都市立絵画専門学校教授に就任。39年第3回新文展に≪三井寺≫を出品し政府買上げとなる。40年紀元二千六百年奉祝美術展に≪鸚鵡小町≫出品。43年第6回新文展で委員、審査員を務める。日本橋三越で開催の関西邦画展覧会に戦死した山本五十六を描いた≪山本元帥像≫を出品。45年第1回京展に出品。47年9月14日没、享年50歳。」とある。

 大三郎の略歴を調べていた時、資料の中に偶然目にした文章があるので参考までに紹介することにした。大三郎がアトリヱ第7巻第4号(昭和5年4月号)に「画材探索の方向」の題で寄稿した文章である。一部を原文のまま引用させてもらうと、「私は主として人物画を描いているが、或る女を見てすぐ其女の何処か美しい處を描く――女を、眼の前に見た女によって初めて画にしやうとする――そうした行き方も勿論あると思ふが、私の順序はそうではない。電車の中街中、室内といろんな場面で長い間に見た澤山の女が頭脳の中に残ってる。頭の中に或る纏つた女が出来上がってる夫れを絵にして行く順序になる。絵にする迄に大體の出来上がった感じは形には出てゐない迄も、自分の頭脳の中にはハッキリ描かれてる夫れを形に現し一製作に取掛らうとする場合には、私の性質として考へてる気持ちに出来る丈けピッタリあった女なり調度なりの、實物を捜して来る事になる。そこに注文通りのものを捜して捜し當て得ぬ苦しみもあり、捜し當てた喜びもある譯だ。茲でうっかりすると、単に夫れ丈けであったら概念的に陥り易く、又自分の好みに引込まれるとか、小さい美しさに陥り易い危険があると思ふ。そう云う危険に陥らない意味からでも、今の私としては實物なしには絵が描けない。以下省略」とあり、大三郎の絵画制作に対する取り組み姿勢が少し理解できたような気がする。

 大三郎は32歳当時にこの文章を寄稿しており、手元作品の制作時期は不明であるが、若しかしたら、実物を重視した作画態度は生かされているのかもしれない。京都市内の何処の場所で眼にした女性たちであったのか知りたいものである。一方、多くの画家たちはモデルを使って人物画を描いていたものとばかり思っていたことが、見事に覆された思いである。

 実は作品を目にしてから暫くの間気になっていたことが二箇所ある。持って回った言い方になってしまったが、要は「髪に隠れて耳が見えない」こと、「モデルの帯が高い位置に締めている」ことである。ところが最近、日本経済新聞朝刊(令和5年12月17日(日))に「西洋音楽と出合う(下)」の記事の中に、中村大三郎の≪ピアノ≫に触れた箇所があり、画家の長男で、洋画家の中村実氏が、「髪は、当時流行していた耳を隠すスタイル、華やかな帯を高めの位置に締める着付けも当時のトレンドだった。」ことが紹介されていた。このことから、より作品を理解するためには、時代背景(当時の流行・・・)も知る必要があることを教えられた思いである。
注、作品119×23㎝、軸装外寸183×44㎝

<参考資料>
日展史  美術八十年史(森口多里著)  アトリヱ第7巻第4号