粋狂老人のアートコラム
ホテルロビーに飾ったあった一枚の絵に衝撃・・・・田中阿喜良
岩肌のような堅牢な画面に記憶の扉が開く・・・・
名古屋在住の頃、勤務先の福利厚生の一環から勤続年数に応じて旅行券が支給されることになった。早速、我が家でも家内と相談し、中国地方をメインに日程を組んだことを覚えている。具体的には厳島(広島)、倉敷(岡山)観光を主として京都にも一泊するという当時としては贅沢な旅行であった。そのうえ往復の新幹線はグリーン車を利用するなど年金生活の我が身には考えられない至れり尽くせりの旅であった。
ここで紹介するのは、広島から倉敷アイビースクエア(ホテル)に到着し、チエックインを家内に任せ、手持ち無沙汰にロビー内を眺めていた時、一枚の絵に気が付いた。当時は絵に特別に興味があったわけでもなく、何となく絵に近づくと、ごつごつした岩肌のような人物画であった。一瞬、“なにこれ”と驚いた記憶が蘇ってくる。この種の絵を描く画家は誰であろうか、すぐにキャプションを見ると「田中阿喜良」とあった。当時は骨董に関心があり、絵にはあまり関心がなかったころである。それでも田中の人物画には何故か見過ごせないものがあった。それだけ強烈な印象が心に植え付けられたことは間違いない。今になって考えてみると、田中の作品には、絵に興味のあるなしに関わらず、記憶に止めるだけの迫力があると思っている。なぜならば何十年経っても出会いの記憶がいまだに鮮明に残っていることが、そのことを物語っている。
ところで、今回取り上げるのは、出会った瞬間、時間が止まったような異様な雰囲気の風景画であった。作者不詳であったが、一目で心を鷲掴みにされたようで、絶対に見過ごせない魅力を放っていた。サインを見ると姓のみであったが、私にはこの種のサインをする画家を一人だけ記憶していた。それは何十年経っても忘れることが出来ない作品との出合を経験した「田中阿喜良」であった。
作品にはカンヴァス木枠に「47、9、24、 アッピア街道」と書き込みがあることから、田中が昭和47年に欧州のどこかを旅行の際に制作したものと思われる。因みに欧州旅行未経験の私は、アッピア街道と言われても場所さえ見当がつかない。さっそく手元資料を調べてみると「古代ローマの主要街道の一つで、ローマと南イタリアを結ぶ最初の舗装道路。BC312年監察官アッピウス クラウディウスにより建設され現存する。(学研 新世紀大辞典1968年発行)」とあり、田中は最初からこの場所を描くために目的地に選んだ可能性が高いと考えている。
アッピア街道 32.0×41.0㎝
この辺で入手した作品について紹介することにしよう。私が出会った時に最初に感じたのは、画面が醸し出す古い時代にタイムスリップしたような未経験の出合であった。その後、画題の「アッピア街道」を知ることとなり、制作の意図が少しずつわかってきた。勿論、現地を見ていないのではっきりしたことは言えないが、現在でも建設当時の風景が残っているのであろうか。構図をみるとまず気になるのは、空全体を単色でV字のように表現し、画面下部中央から上部に縦に道路を配置していることである。田中はこの道路をメインとして最初から構図を考えたことがわかる配置である。向かって左側には古い塔や二本の樹木、右側には石や芝生のようなものが描かれ、視線を上部に移すと一本の糸杉も目に辿り着く。作者は自然に視線が四方から道路の上部先端の一本の低木に集まるように意図して制作したと思われる。所謂、遠近法を採用しているのであろう。一方、鑑賞者を引き付けるのは、何と言っても個性的な樹木の表現や異空間を感じさせる配色の妙にあるのかもしれない。その上に道路の先端部分の左に曲げた表現にも注目している。一方、他人がみたら気にも留めないことかもしれないが、細かいところが気になる私としては、実際道路の先端部分が左に曲がっているのか、画家が意図的に曲げて表現したのか知りたい思いが残っている。因みに、私が購入を決めたのは、田中が画面に作り出す一種独特の世界に思わず引き込まれたことかもしれない。
田中はパリで亡くなっており、画業を知るうえで情報不足は如何ともしがたい。そこで田中の画業を多くの絵画ファンに知ってもらうべく、乏しい資料から私が調べた略歴を紹介することにした。手元調査資料によると、田中は「1918年8月20日枚方市に生まれる。本名中島阿喜良。37年大阪府立高津中学校卒業。38年姫路高等学校に入学。40年同校中退。43年京都高等工芸学校図案科卒。47年第2回行動美術展に≪庭≫初入選。55年行動美術協会創立10周年記念展に出品。行動美術協会会員となる。56年「今日の新人」展招待出品(神奈川県立近代美術館)。57年第12回行動美術展で行動美術賞。シエル美術賞展で一等賞。58年第13回行動展に≪寓話≫出品。渡仏。59年フランス・ビルヌーブ一等賞。60年モナコ国際展絵画部でグランプリ、仏国ボンタヴァン賞。61年サロン・ドートンヌ会員。62年パリ・ジャン・カステル画廊と契約。63年パリ・エルベ画廊と契約。64年第5回国際具象美術展に≪石工≫招待出品。67年田中阿喜良展(6月8日~16日、日動サロン)、一時帰国。69年田中阿喜良展(1月14日~23日、日動サロン)、田中阿喜良展(2月1日~10日、名古屋日動画廊)。文化庁作品買上げ。70年第25回行動展に≪アトレミレィ>出品。71年第3回田中阿喜良展(6月10日~19日、日動画廊)。72年美術グラフ(1972―4)の生活感情に基く傾向に≪市場(1967)>が取り上げられる。「一枚の絵 第10号(8月号)」に人間の内奥を描くとして≪マッソン≫が取り上げられる。73年「田中阿喜良画集―生きる」読売新聞社から発行。75年神奈川県立近代美術館で回顧展。77年田中阿喜良展(7月22日~30日、名古屋日動画廊)。82年6月10日パリで没、享年63歳。」とあり、その後も93年月刊美術の「今も瞼に残る絵―ここ20年の物故洋画家を買う―」特集に≪笛≫≪漁夫≫取り上げられる。」とある。
最後に田中作品の鑑賞の参考になる文章を見付けたので一部引用させてもらうことにした。匠秀夫氏(美術評論家)が一枚の絵に「田中はアンフォルメにも、ポップ・アートにも目もくれず、そのモティーフをフランスの労働者、それも老人に絞って、あくことなく一途に描き続けている。モティーフといい、また粘っこいマチエルといい、いかにも泥くさく、野暮ったいが、関西人らしい庶民的な体臭をのぞかせている。そして彼の労働者に寄せるこの親近感と愛情はただに関西人のもつ庶民性からくるものにとどまらず、人間を描きたいという彼の根源的な姿勢にもとづいているのである。―以下省略。」匠氏の批評を読むと、なぜか素直に受け入れてしまうから不思議である。それは恐らく素人が表現できないことをさらりと文章にしてしまうことかもしれない。
一方、調査の中で目にした田中の作品はすべて人物画であり、手元の作品は初めて目にする風景画であったことから珍しいのではと受け止めている。残念なのは田中の遺作展や回顧展図録が見つかっていないことである。
<参考資料>
13回 行動美術作品集 画家5,500名の略歴
月刊美術1993年3月号(NO。210) 一枚の絵8月号(1972年7月10日)
第5回国際具象美術展図録 日動画廊50年史 美術グラフ(1970―10)
美術グラフ(1972―4) パリを描いた日本人画家展図録