田村和司さんのよもやま絵話-------“美”とは?
                第11回 「カルロ・セルジオ・シニョーリの彫刻美」

 
今は5月。コロナによる蟄居生活の気晴らしに車で宇治川沿いを走る。
山々は美しい緑の諧調。淡い、深い、重い、渋い、そして目に優しい。
画家が新緑に絵心を動かされることが絵心のない私にも分かる気がする。

          

出窓に置いている白大理石の彫刻がある。
シニョーリの「FEUILLE」フランス語で“葉”という意味だそうである。
出窓に置いたのは外の光に照らされると透明感が増して美しく見えるからである。
そして、外の緑の葉に溶け込む時、大理石の美しさがより映えるように見える。

この彫刻はフランスのオークションに出たものをフアックスで入札し、入手したもので、
海外オークションの作品を画商経由でなく個人で購入したのはこの作品が最初で最後である。
落札したものの、フランス語が分からず、知人の翻訳家に頼んでやっとのことで入手した思い出の多い作品である。

シニョーリは写真家である従妹のご主人で、銀座の画廊での遺作展の打ち合わせに帰国した彼女に初めて会った。
その時、小品の絵画を10数点と彫刻の図版を見せて頂いた。
爽やかな気持ちになったのを覚えている。

シニョーリは1906年生まれのイタリア人でパリにアトリエを持ち制作していた。
ブランクーシ、スーチン、レジェ、ザッキン等との交友があった、そのような時代の人である。

彼の芸術を語るのは私には難しいので本郷新が1973年に現代彫刻センターで開催された個展に書いた紹介文を少し長いが引用させていただく。

「現代イタリア彫刻の活力にあふれながらもどこか饒舌にすぎる側面はシニョーリの作品には少しも見当たらない。そこにはむしろ東洋的な静けさと瞑想を感じさせる。彼の中では、古代ギリシャの彫刻の清浄な石の語らいと、東洋芸術のもつ神秘的な象徴性が詩韻の土壌になっているのではないかと思われる。また、彼の彫刻は静かな声でひかえ目に語る人と向かいあったときの心の安らぎを覚えさせる。藩性に属する何らかの圧迫感はなく、対談する相手の心を沈静に導く力を備えている。
これらの感情は、よく見ると彼の高度な石に対する技術に起因しているようにも思われる。
彼は石という素材からまず野生をとりのぞく。次に石から重さをとりのぞく。といって、
職人的な作りものにしたり、軽妙さを誇示するようなところはない。あくまでも、内心の詩情を石に託して歌わせるという次元の高い精緻な技術を支えとして一つの彫刻を成り立たせる。彫刻における技術というもの、深い意味を愛しつつ撫でまわしているように思われる。おそらく彼の中には抽象とか具象とかよくいわれる形式上の分類はなく、さりとて混淆もなく、もっと高い次元で彫刻美の世界を見つめているのだろう。」

シニョーリの芸術を的確に表現していると思う。

若い頃、フォーブや表現主義の作品に心を動かされることが多かったが、最近、シニョーリが表現した“美”を好ましく思うようになってきた。
齢のせいであろう。歳をとるのも悪いものではない、別の美が見えてくるのだからと老いを感じる自分に言い聞かせている。