田村和司さんのよもやま絵話-------“美”とは?
                第12回 刹那の美---遠山五郎「布良の山にて」

       

東京美術学校の学生であった23歳(1911年)の時、小林万吾に従い房州白浜に写生旅行をしましたがその時の作品と思われます。
題名は絵の表面に描かれていますが“何々の花”としなかったことでこの絵の見方に幅をもたせていると思います。

山道を歩いていた時でしょうか、ふと目にした小さな花を写したものでしょう。
ご覧のようにありふれた絵でどこにでもありそうな目立たないものです。

           

裏面に「海女の子守り」という荒いタッチの作品が描かれています。
この作品を入手した当時、「海女の子守り」に心惹かれましたが、暫くすると「布良の山にて」がだんだん良く見えるようになってきました。

何故、そうなったのか考えてみました。

ある時、何も考えず絵を見続けて遠山五郎が見た目線を想像してみました。
そして思いました。絵はああでもない、こうでもない、こねくり回して描くものではない。と。
きっと画家が無心で路傍の花の美しさに心を動かされ、それをそのまま絵にしたのだと思います。
その刹那の美が魅かれる理由ではないか、そう思いました。

「美はどこにでも転がっている。それを見ようとしないし、見つけようとしないから
美を見いだせない。」若い頃、目利きとして名高かった美術研究「藝林」の舎主であった梅野隆氏に教えて頂いたことを思い出しました。

遠山五郎作品の良さは、絵を描いたときの心情が率直に絵に滲み出ていることと、人間としての品性がどの絵にも感じられることではないかと思っています。
妻と親友の中村彝を亡くした後に描かれた作品を所有していますが、品性は失っていないものの、その絵からは抜け殻のような遠山五郎が見えてきます。
この駄作とも思える絵を見た時、この画家は本物の画家だ、買わなければと思いました。

画家が鑑賞者に描いた絵を見てほしいと思って描いたとき、その時点で絵に厭らしさが出るのではないでしょうか、
絵を描きたい一心で他に雑念のない時、その絵は鑑賞者の心を捉えるのではないでしょうか、

「布良の山にて」は私にとってそのような絵ですし、改めて美について考えさせてくれた絵です。
私はこのような美もあると思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか?