田村和司さんのよもやま絵話-------“美”とは?
                   第18回   孤高の画家・大村長府

  大村長府という画家の絵がネットオークションで売りに出た。

      
      
   「奈良雨中ノ藤図」43.6×82.7 油彩・麻布 1920年作

画集「孤高の画家 大村長府(大和美術資料 第1集)奈良県立美術館編 昭和53年発行」が付属していた。
この画集を40年ほど前、奈良県立美術館(以下、奈良県美)のショップで見たのを思い出した。ただ、外観だけで中身は見ていなかった。
今まで見てきた風景画とは異なる不思議な絵であったが、その素晴らしい風景描写に魅かれ入手した。

何故これほどの絵を描いた画家が世に知られていないのか?
画歴が物語っていると思った。
当時の画家は官展に出品し、認められている。
ところが彼は海外に目を向けていた。
「審査員ニ成リシモノハ洋画ハ海外サロンへ出品世界対等ノ位置ニ進マシム様」と述べている。
大正 9年 「矛盾ノ画」・「茂山肖像」 イギリス ローヤルアカデミー入選
大正10年 「奈良雨中ノ藤図」    フランス ソシエテ・デ・ザルティスト・
                   フランセ入選
いずれも彼の画論である「直観画論」に基づいて描かれているようである。

直観画論について島田康寛氏(当時、京都国立近代美術館)は次のように説明している。
自然物が人間の眼に映ずるとおりに、忠実に写しとるというのが、彼の方法といえる。
いいかえれば、製作している時の彼の眼は、自然物を観ていると同時に、もう一方では、自分の眼の裡に自然がどのように映じているかを冷静にみつめているわけである。
長府が長い考究の末に獲得した「眼」があり、独自の視覚構造があるといわねばなるまい。

直観とは、思惟作用を加えることなく対象を直接に把握する作用。をいう。これは仏教でいう無分別智であり、分別智に対するものである。
西洋の自然主義絵画に似た表現法をとりながらも、直観画がそれと根本的に異なるのは、長府が「空」の立場に立っている点であろう。

島田氏が代表作という「奈良雨中ノ藤図」は直観画論に基づいて描かれているのだが
これは私には難しすぎてよく分からないので、絵を見て感じたことを述べる。

奈良、奥飛火野の風景だろうか。背景の山々は雨にかすみ、新緑の木々の中に咲く白と藤色の花、雨が画面全体を覆っている、その風情。右に小さく2頭の鹿が雨から逃れるように走っている。見事に表現された動と静。そして驟雨の音が聞こえてくる。
この絵の前に立ちしばらく見ているとその臨場感とでもいうようなものにひきよせられてしまう。単なるリアリズムの絵画ではこうはいかない。

平岡照啓氏(当時、奈良県立美術館学芸員)は長府を次のように位置づけている。
明治から大正期へと移りゆく美術の世界の中で、大村長府は、模索を続けながらも独自の画論をうちたてた。そして、それを実践していった。
彼の生きざまは、奈良における初期の洋画家として認識されるだけでなく、日本の近代美術史における特異な存在としてより注目すべきものといえるのではなかろうか。

入手後、この作品は後世に残すべき貴重な作品と思い、奈良県美に連絡をしたが、大変喜んで頂いた。阪神大震災後、所在不明となり失われたのではないかと考えられていたようである。
画集に掲載されている絵はスケッチを入れても30数点。その内、所在が判明している作品は10数点のようで、当然、単独での展覧会は開けず、また主だった作品が揃わねば他の画家との展覧会共催も出来ない状況のようであった。
この代表作により顕彰の道筋が見えたのではないかと自負している。

大正時代に自己の画論に則りこのような絵を描いた大村長府をぜひ美術館などで顕彰し美術史の中に組み入れてほしいものだと切に思う。

年譜(抜粋)
明治3年 奈良県大和郡山市九条辺りで大村玄周、龍子の長男として生まれる。
明治21年(19歳)上京、本多錦吉郎に師事する。
明治22年(20歳)明治美術会第1回展覧会「寺院」出品
明治28年(26歳)文学・東洋哲学の研究に専心する。
明治35年(33歳)符阪なみと結婚
大正 1年(43歳)自己の画論「直観画」をつくりあげる。
大正 8年(50歳)ローヤル・アカデミーへ出品
大正 9年(51歳)ソシエテ・デ・ザルティスト・フランセへ出品
大正12年(54歳)日仏交換画会で渡仏した和田英作が同会から託され
          「奈良雨中ノ藤図」を持ち帰る。5月に売却
大正14年(56歳)死去