田村和司さんのよもやま絵話―――“美”とは?
         第4回「オードリー・ヘップバーン、クロード・モネ、河野通紀」

 
その1
学生時代に友人数人と「ローマの休日」を見に行った。
帰りに、皆、口をそろえて「ヘップバーン」は美人だと言う。
私1人が美人でないと言って、皆から批判された。
魅力的でかわいいが、美人ではないと私は譲らなかった。

その2
上京すると必ず国立西洋美術館の常設展を見に行くことにしている。
理由はもちろん名画の鑑賞であるが、多くの作品の素晴らしさがいまだに解からず
それが何故か、その素晴らしさを自分の眼で確かめたくて何度でも足を運ぶ。
なかでもモネについて、松方幸次郎がモネの秘蔵品を直接談判して購入したものでモネの中でも傑作だと多くの人が言う。
そのモネを私はいまだに解からず、何の感動も湧いてこないことに自分の眼と感性の
乏しさにあきれてしまい、何度でも見に行く。
一体、いつになったら解かるのかと思いつつ。
印象派の先駆けとなったとよく言われる「スタニスラス・レピーヌ」や「ウジェーヌ・ブーダン」あたりは「いいなー」と思うのだが、何故かモネを含めた印象派の画家たちの作品の良さが理解できない。ポスト印象派と言われるセザンヌになると引き込まれるのに。

                           
 
            
その3
知り合いの画商から電話があり「田村さん、河野通紀を知っていますか、傑作が手に入ったので是非見てほしい。昨年、「リアルのゆくえ展」に姫路市立美術館所蔵の絵が展示されましたが、それに負けないぐらいの素晴らしい絵です。新聞にも高島野十郎と並んで紹介されている画家です。サイズは30P、1953年作、題名は“饗宴”、行動美術展の出品作です。」
「知っていますが嫌いなので、見たくありません。見ても買いませんので、それでよければお出で下さい」
と、なんと冷たい言葉を画商に言ってしまったと電話の後で申し訳なく思った。
作品を見て、「私は嫌いですから買いません。お持ち帰りください。」とまたも冷たく言い放ってしまった。
気の毒に、画商は悲しそうに車に乗せた。
帰った後、妻が「あの絵はどうしたの」と言う。「持ち帰ってもらった」と私。
妻は気に入ったので買うつもりであったと言う。特にローソクの炎がなんともいえず魅力的だと言う。
あわてて、電話をして、20分ぐらい走った所から再度、持ってきてもらった。
私は事情を言い何度も謝った。
画商は、絵が売れたことより、この絵の良さを理解してくれたことを大変喜んでくれた。

とりとめのない話を3つ紹介しましたが,私が言いたいのは“美”なんてものは、人それぞれによって見方が異なるものなのではないか、ということです。

日本では、印象派展を開催すると入場者が多いと聞きます。
以前、入場券を頂き、止む無く妻とその友人たち数名で印象派の展覧会を見に行きましたが1時間30分待たされ入場したものの、見るべき作品がなく、何故か2点展示されていたセザンヌのみを見たあと、わずか10分で出口にでて,そこのベンチで1時間近く待ったことがありました。出てくる人達は皆、素晴らしかったと口々に言う。本当にそうなのか、一人寂しくその1時間が長かったことを思い出します。